昭和48年01月04日 夜の御理解
(途中から)
信心の研修です。それに正月の四日は、その後に皆さんの正月の、ちょっとお印をさしてもらうんですけれども、是もまた料理も毎年おんなじなんです。勿論あの正月料理ですけれども、正月料理に必ずあの、お下がりの大きな鯛がありますから、鯛チリをさしてもらう。是がもう神愛会のときの、まあ正月のおご馳走ですから、いつもおんなじなんです。まあみごとに今日料理して御座いました、美味しゅう頂いたんです。
その時に皆さんに言ったことですけれども、これはね私の流儀であり、それがまあ家の流儀の様になってるんですよというて話したことですけども、総代会の時にはまた、おんなじ正月料理ですけれど、それがあのかしわの水炊きなんです。もうこれはそう絶対なんです。先生方の会ん時にはあの鯛チリと、ね、ですからかしわの水炊きんときもそうですし、、鯛のチリん時でもおんなじですけれども、今日は鯛のチリと銘打ってあるからには、鯛を腹いっぱい頂いてもらおうというのが願いなんです。
お客様に対する、ですからもう必ずも、もう鯛の切り身の大きなこんなに厚いところを、もう鯛ばっかりを、出すんですね、それにあの、勿論あの薬味を添えて出すんです。そしてもう腹いっぱい召し上がったと言う所で、そのそれに様々な春菊があり、お豆腐があり、ね、また湯葉がありと言う様に、それに向くものをこう出さしてもらおうと。これは私の流儀うちの流儀だからというて、出したんですけれど、どんなでしょうかね。あの鯛チリというても、かしわのチリというても。
かしわこまかつが、一切れであとは豆腐やらばっかりこうして何杯もさあ、どうぞお変わりお変わりお変わりというよりも、かしわのやはりあの、水炊きなら、かしわで堪能させる。鯛のチリなら鯛のチリで満腹して貰う。もう後の野菜とかそれに付いたものは、もうもう魚は食べれんけれど又お野菜は、あらたな味わいで頂けれると言う様な、まあ一つの嗜好ですけれどね、そういうなら、どうもそう言う様な生き方が、私の生活の上にも、または信心の上にも、大変強く表れておるですね。
もうこうと言い出したら、これを腹いっぱい、ね、例えば私どもが二十年間けいこしてきた、その成り行きを大切にしていけ、成り行を尊べ、ま、よう二十何年間、これだけを言うてきたことだと思うくらい。そらもう勿論ご理解が一日一日、あらたなご理解を頂きますけれども、結局は成り行きを尊べ、成り行きを大事にしろと言う事だけに絞れば、そういうことになってまいります。ね。
そしてそれが所謂段々高度なものになって、その御の字を付けなければならないと言い出したら、所謂すべてを御事柄、御事柄でま受けてきたでしょう。ですからそれで皆さんが、堪能して貰わなければいけないんです。成程そうだなと言う所まで、こちらがそれを出してるんですから、頂いて貰わなければいけない。今日はあの研修の時に、幹三郎が発表しておりましたけれども。今までは本当に、合楽の信心があまりにも高度に見えてね、広くてねつかみ所がなくて。
どこから信心を手かけて行って良いか分からないという感じだったのが、今度こちらに帰ってきてね、所謂五つの願いというものがこう焦点に打ち出されて、そしてその事を一つ一つ思うて見ると、一つ一つが大事な事なんだ。願わなければ実はならない事なんだ。んなら願うからには、こうあってくれよと、頼むからには、こうなからなければいけないよという、まあ末永先生が申しておりました様にね、頼むからには、願うからにはという、もうはっきりそこにこう、打ち出された。
しかも今までの真の信心の、が、真の信心の基礎であるならば、これからは愈々それを花にもしていく、実にもしていこうという願いだというふうにね、まあ言ってるわけです。けどもはたして取り組んでみて、見やすいものだろか、決して見やすい事はないです、やはり、ね、最近言う三つの願い、どうぞ元気でありますようにとか、ね、家庭が円満でありますようにとか、子孫繁盛家繁盛のおげをどうぞ、頂かせて下さいと祈り願わせて頂くという事は、もう切実腹の底から思うておる事ですから願えるし。
このおかげが頂けれるなら。成程大酒大食も致しません、人を責めるという事も修行としてから、本気に取り組ませてもらいますと、子孫繁盛、家繁盛を願うからには、本気でお仕事に忠実にもならして貰います、始末倹約も致します、という事がでけるのだけれども、その後の二つが難しいことに、ほっと気が付くのです。見やすいようであって、ね、けれともそこんところをです、愈々いわば、神様が慕わしゅうなるまでの、ね、今までの信心は、何とはなしにこう、
昨日一昨日でしたかね、のご理解を頂ますと、居候三杯目にはそっと出しと言った様な感じの、お願い事があるけれども、親先生がもう願わんでも、頼まんでも頂けるおかげ、それはもう和賀心を目指す以外にはないんだ。その和賀心は成り行きを大事にして、おんことがらとして受けていく修行をすりゃ、和賀心はおのずと生まれて来るんだと言われるのですから。こう願いがあっても、願いがこう何もかにも、そげんな願われんと言った様な、感じがあった。
ですからまあいうならば、居候的な信心であった。三杯目にはそっと出すと言う様なです、信心からです、ね、それこそ親ではないか、ね、真実の親ではないか、何が気兼ねが要るもか、ね、居候ではないぞ、真実の愛を知れ、親の願いを知れという事に成って来た訳です。真実の愛を知り親の願いを、それともし親はその事を祈ってくれ、願ってくれ、頼む修行してくれといっておられるのですから、何が遠慮がいるものかという所まで、高められてきたにも拘らず、見やすく感じられるわけです。
今日、幹三郎じゃないけれども見やすく。けれども実際に取り組んでみるとです、そこん所は実感を持って願いもする、祈りもするんだけれども、真実の御用ができますように又は神の、神願成就の事の為に、奉仕のでけるほどしの、私にならして下さいという願いになってくると非常に実感というものは乏しゅうなってくる。そこにです私は今度は悲しさ、ね、を感じれれるような信心を頂いていく。この悲しさというのはね、あの実に楽しい悲しさなんです。親が見ても自分自身もそうなんです。
久留米の初代の光橋先生じゃないけれども、とにかく夕のご祈念に参ってくる。もうそれこそ、やかましゅう言うて怒られる。しかも私がほんとに後で考えるとああ、理不尽だと思うような怒り方をする。そすと腹かいて帰る。帰るけれども、久留米までは帰りきらなかった。勿体島、塚田当たりいつも私のあそこは泣き場でしたと言う様に、あの塚田のあの森の中にちゃんとしやがみ込んでから泣いた。その涙がねなんとも言えん自分の心を洗い清めるような思いがする。
あくる日は成程、親が言うた事が理不尽だったけれども、それでもね、それでもやはり、さらさらとして子供の自分から、お詫びがでける。朝の御祈念にはもうで出て来とるから、あのどうして出てきよるじゃろうと思うた。ところがなんの久留米まで帰っとらんとじゃもん。バスがないから帰られんのですよ。歩いてでも帰るに行って、あの後ば付けて行くごたある気がしよった。けども実際は久留米までいっとらん。あの塚田あの森の中が私の泣き場だった。
しかも一晩泣かせて頂いたら、心が清められる、それは楽しい涙なんです。こげんやかましい言うてくれるてんなんてん、とても誰でんじゃ言うちゃくれんぞと。親なればこそ言うてくれるんだといったような、その清い涙です。清い悲しさなんです。それをあの先日の、ま、歌とも詩ともつかない言葉をもってすると、心に迷いの闇が迫ってくると、悩み果て無し、乱れる心に願うはただこと、恋しく心はあせれど、涙あふれては尽きぬ。ということになる。
ですからそういう涙のこぼれる位な所までね、自分の信心を高めていきたい。三つのこの願いは、人間誰しもが願って止まないことですから、もう渡りに船のごとして、まあ乗ってくるのですけれども、後の二つは、成程唱えてはおるけれども、ほどしに実感がないという所に、それができなければ、真の信心になれないのだから。信心に筋金が通とるだけでは、弱い筋金はつまらん。
この三つの願いよりも後の二つの願いのほうが、いわば切実に、ってこそ、お役に立ちたい、立ちたいの一念が、信心のこの修行の姿であるということになってくるとです、ねそれは、尊いことになって来るのであり、またはそれがなるほど真の信心であろう。ちょっと考えますとね、幹三郎じゃないけれども、なんか見やすうなったごたある、けれども実際取り組んでみると、そういうことではないということ。
けれどもそこに自分の、まだ真でないこと、ほんとでないことを、はっきり分からせて頂く、一つの尺度ともなるようなものです。だからそこがいつの間にやら、なら今までの二十年間のいうなら信心の基礎というかね、鍛えてきた成り行きとか、御事柄として受けていく、そういう信心の中から、限りなく美しゅうならなければでけません。そこからという心が生まれてくるだろう。
そして願っても願っても、それを与えられない空しさを感ずるかもしれません。けどもそのこと自体が、なつかわしいというか有り難い、所謂信心の妙みに触れてくるわけですね。そこを通りぬけた先にです、私は光が頂けれるんだ。今日先生方に話したことでしたけども、私は光ということは徳だと思うとったけれどそうじゃないなと、力ということは徳と思うとったけれども、そうじゃないなと。
私どもが対自然と対決する。成り行きを大事にするということは、自然と対決する、そういにして勝っていかなければならんけれども、負けることもある。言うなら、勝ったり負けたりのうちにです、力というものはついてくるんだということ。ね、またはその、自然との対決において、はあ、今日は辛抱しぬいてよかった、いわば成り行きに、いわば打ち勝っての、今日一日であったというその喜びが光になるのです。
そういうのがたまりたまって、お徳になるんだということを皆さんに聞いて頂いたんですけれども、確かにそうです。私は光は徳だ、力は徳だと思うておったけれども、徳を力の内容にはなるけれどね、けれどそれが、ご神徳ではない。御神徳はその、光を力をいやが上にも頂いて、頂いてその先に、神様の、もうこの氏子はこの光を消しはすまい、この力を落としはすまいというところから。
生まれて来る神のご信用が、御神徳なんです。ま、そういうことも今日は、ああして聞いて頂いたわけなんですけれどね、どうでも一つ、おかげを頂いて、取り組んでみると実は難しい、または取り組んでくるとまた、願い方が変わってくる。取り組んでくるとまた、今まで五つの願いの、今言葉以上、以外のものに発見させて頂くことがでけてくる。まずは取り組まなければいけません。